昭和46年03月17日 朝の御理解
御理解 第65節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」
例えば、お湿りがありましても、丁度、昨日、種を蒔かせて頂いておる。昨日、苗を植えた。おかげを頂いて、ちょうどお湿りがあっておかげを頂いたと言う事になりますよね。今日どこにか行かなければならないという時に、お湿りがあると、そのお湿りは、自分にとっては都合の悪いお湿りという事。
昨夜、久富さんからお届があったんですけれども、今日はあちらの、北野の娘婿さんの家が新築になります。それで地鎮祭をして欲しいという事でございました。地鎮祭は例えばさせて貰うのに、お湿りがあっては出来ませんもんね。土や砂を盛ったり外でする事ですから家の中では出来ません。それに例えば今朝もお湿りがあっておる様ですが、お湿りがあります。これは都合の良い日と言う事にはならない。
何時も正教さんがよくお届されることですけれども、本当にこればっかりはもう有り難いです。もう何か植えたり移植したりした後にお湿りを頂く。本当に有り難い。といういわゆる天気の上に、素晴らしいそういうタイミングの良いおかげを受けられる。所が今日は娘婿の家の地鎮祭だと言うのに、折悪しくお湿りがあっておる。これは都合が悪い事になる。けれども私は久富さんのことですから、例えば出来ないなら出来ないにです、これは神様のご都合に違いはない。
こちらに都合が良いのじゃない。これは神様のご都合に違いはない。神様が都合が良いのである。これは、人間中心主義と申しましょうかね。いわゆる自分本位の信心になりますと、都合の悪い日や、都合の良い日が出来てきますけれども、段々お互いの信心が進んで参りますとね、自分本位ではなくて、神様本位の信心が出来てくるようになる。そこから、これは神様のご都合に違いはないと頂ける訳なんです。
してみるとですほんなら是はここには空にほんぞら雲のないと言った様な日が、自分に都合の良い日だけが、良い日柄じゃという風に言うてありますけれども。そこの所の信心を少し進めて参りますとです、言うならば降っても照ってもおかげである、と言う事になるですね。自分中心であると自分の都合の良い事だけがおかげであって、今日はあいにくお湿りがあるというてくると、所謂困ったお天気だという事になる。
けれども是はほんなら自分中心ではなくて、神様中心で頂いてまいりますとね、これは神様のご都合に違いはないという事になってくる。信心が、大変に大きな信心になってくるですね。私は、どうでもね、自分本位の信心から、神様本位の信心になってまいりませんと、お道の信心の本当の有り難さも分からんし、また本当の大きなおかげも受けられないと思うですね。
そこの所が分かって参りますと、どういう事になってくるかというと、氏子が神様本位なら神様が又氏子本位でおかげを下さると言う事になってくるです。自分の都合ばっかり言うてお願いをする時代。自分の都合で良いとか悪いとかを決めてしまうと言った様な矢張り時代がありますよね。けれどもそこを段々分からせて頂いてです。所謂神様のお心が段々分かるようになり、いわば機感にかのうた信心とこう言う。
神の機感に通うた信心が、段々分からせて頂くようになってまいりますと、所謂神様を中心に申し上げた生活。そういう生活が本当の信心生活です。そこのところがすっきり出来て来る様になる時に、降ってもおかげであるなら、照ってもまたおかげであると言う事になる。これは降り照りのことだけではありません。痛い痒いの事でも同じ事です。まぁ、いわゆる、私共が言う、難儀と言う難儀の全てがそうです。
それは難儀ではない事になる。神の願いであり、神の氏子可愛いという、愛の一念がその様な形に現れてくるのですから、難とみえる事でも有り難しであり、又難とみえる事であっても、それをおかげと頂いて行くという事。ですからもうそこには、難という言葉すらがなくなってくる。ですからどうでもその辺のところのね、いわゆる神様本位の信心をさせて貰う。おかげを頂く。
私は、今日は、この六十五節からですね、世間になんぼうも難儀な氏子ありと。実意丁寧な信心をしよると、一生懸命信心をしよる。あれの中には、沢山なやはり、仏様やら神様がおられましてね、それぞれにまぁ一つの宗教を持っておる。信心をしておる。ところがです、どの宗派も、または、どういう宗教もです。降ってもおかげ、照ってもおかげというような、説き方をしておる宗教はない。
もう金光様の御信心だけだ、というても良いでしょうね。私は他の宗教をあんまり知らんけれども、私が知り得ておる範囲でいうとそうなんです。もう実に信心をしておることによって、不自由な信心。不自由な生活をしておるわけです。かえってこの日柄とか方位とかいったようなものを売り物にしておる宗教すらあるぐらいですね。それは例えば神様を中心に申し上げた信心。
いわば神様本意の信心と、言う様な事をね、言うたり説いたりしておるのが、ありますけれどね、よくよくそれを分からせて頂きよるとです、そうでないですね。降ってもおかげ照ってもおかげと言いよるけれども。例えば今日のここの所の、まあ私が説いております通りまいりますとね。雨が降ってもおかげそれは自分に、例えば都合が悪いことであっても、それが神様本意の信心であったら、これは神様のお心を持って考えると、矢張り降ったらよいから降ってあるのですから。
其れもまた有り難いと言う事になってくる。例えばここの所を少し問題を変えて申しますとね。いうならこの六十五節の日のお照らしなさる日に、良い悪いは無いと思えと仰る。全て降っても照っても、全ていつでもそれが良い日であり、良い事だと言う事になるのですからね。例えばほんなら食べ物なら食べ物でもそうだろうと思う。食べものと名のつくものであるなら、飲み物として名のつく飲み物であるならばです。
全てが有り難いものでなからなければいけませんよね。教祖のそこん所の例えば食物訓で言うと、人の生命の為に天地の神が創り与え給うたものでありますから、みんながありがたい。いや大酒大食は許されない。それはその大事な体を害しますからね。けれども、頂く事は有り難い。食物のその全てが有り難いものでなからなければならん。そのありがたいものに、けちをつける。
それは生臭けであるとか、それはアルコール分であるとかと言う事になって来ておるでしょうが。アルコール分もありがたいなら、生臭けもまた有り難いと言う様な、私は大きな信心ですね、金光様のご信心は。そこに氏子が神様本意の信心をさせて頂く所から、そのようなことが段々分かってくる。問題は有り難く頂いていくという事が、一番素晴らしい生き方だと言う事になります。
と言う事で大体、皆さん理屈の事は分かられたですね今日は。降ってもおかげである、照ってもおかげである。まぁこれは降り照るくらいな事ならば、神様本意で自分は信心させてもらいよると。自分中心じゃなくて、神様中心主義で自分はおかげを頂いておるから、はあ、今日はああた、お湿りですよと。今日は地鎮祭をして頂こうと思いよったのにと。はあそれでもねこれは神様のご都合ぞと。
又明日ならあさってなりに伸ばさせて頂きゃ良いじゃないかと、まあ言えるわけなんです。それは神様を中心にした考え方であるから、神様のご都合であろうとして、そう頂く事が出来るのです。いうならば全てもういつもが有り難い日である、と言う事はです。降り照るの事だけではない、日の事だけではない。私共の日常生活の上にです、様々な事柄の上にもそれが通ずる。そこでほんなら様々な事柄が起きて来た時です。
自分に都合の悪い事が起きてまいりましても、これは神様のご都合に違いはないのだと受けていけるか、いけないかと言う所に是からの信心があるわけです。私が申しました理屈はわかったでしょう。まあ久富さんの例をとって、種を蒔いたり苗を植え替えたりした時にお湿りがあったら、はぁおかげ頂いたとこう思う。ところが実は今日は娘婿の家の地鎮祭をお願いしてあるのに、今日のようなお湿りでは、いわば困ったお天気だと言う所だけれども、さぁそこは日頃教えを頂いておりますから。
神様のご都合に違いはないと、まあそのくらいな事なら、それで受けられますけれどもこれは何時もである。何時もそれで受けられなければならないと言う所にです、いうならば是からの信心があるわけです。是は何時もというだけではない、何事にでもと言う事にもなってくるのです。何事にも神様のご都合に違いはないとして頂く頂き方。それは神様本意の信心をしよらなければです、頂けることではない。
さあ理屈はそこまでで分かった。ところが実際問題としてですいうなら自分に都合の悪いことが起きてまいりますとです。これも神様のご都合だとばかりは頂けない事がある。一本勝負ですからね。それを神様のご都合だとして頂けない。神様を中心に申し上げた信心しよりゃ、そげな風に思わされてくるのです自然と。ところがです実際はそれが痛い、痒みの事であったり、損得のことになってまいりましたりするとです。
神様本意の信心を自慢しておるようであっても、やはり自分本位がチラッと覗いてまいりますと、そこん所に不平不足が出てくる。そうすると何時もかつもが良い日ではなくて、いうならばどの様な事柄でも、神様のご都合として頂かなければならんのだけれども頂けない。理屈では分かっておる。分かっちゃおるけれども出来ないのである。そこでねそこからが、大体は信心だという事になるのですよ、金光様の御信心は。
そう言う様な時に信心の腰をおりますですね。いわゆる腰折れ信心です。分かってるんです。神様のご都合と分かってる。またそう教えられてきてる。なるほど自分中心の小さい信心では、大したことはない。神様を中心に申し上げた信心にならにゃいけん。神様本意でいけば降っても神様のご都合であろう、照っても神様のおかげとして受けられるはずなんだけれど。
それが問題が少し大きくなってまいりまして、いよいよ自分に都合が悪くなってくるとです、痛い痒いが激しくなってくるとです。神様のご都合とばかりは頂けない。そこで、信心の腰が折れる。どんなに綺麗な花でどんどん水揚げをしよる花でも、腰が折れますとね、もうそこから水をあげません。水を吸い上げる力がなくなるです。簡単なことなのですけれども腰折れ信心では、だからおかげが続かない事が分かります。
私今日ご神前で頂きましたことはね、「久保山茂」と頂きました。腰折れという事を頂いて、次にそのことを頂きましたから、久保山茂が腰折れ信心かなとこう思うたけど、まぁ、そうかもしれんけれどもそうでもなさそう。やっぱり御理解付きである。久保山茂という事はどういう事かというと、久しく保つ山と書いてあるね、久保山とは。山と言う事は修行という時に頂きます。保つという字は保留の保です。
久保山の久は久しいという事です。だから是はですね、まあ教祖の言葉を借りると、一生が修行じゃという事。もう死ぬまでが修行だという事。ちょうどその前にですね、こんな筆の新しいのに、墨をちょこっとばっかしつけて、ほんの先のほうだけに、ちょっと墨を付けておるところを頂いた。はあほんならそうだ。大きな字を書きたい。大きな字を書きたいけれども、修行はしようごとなか。
修行はちょこっとばっかりして、大きなおかげを頂きたいと思いよる。墨は苦労です。黒うするでしょう、こうやって。その黒うすった墨がたっぷりある。苦労と言う事はお道では修行と頂かなければなりません。その修行をたっぷり修行のほさきにさせて頂いておって、大きな筆を、それこそ根元までおろさせて頂いて、かえって初めて、大きな字が書けるのですよ。
その苦労の墨汁の方はない、一つもすらんどいてから、ほんの先の方に、ちょこっとばっかりしかつかんくらいにしかなくて、大きな字を書きたい、大きなおかげを頂きたい。大きなことばっかり思いよりゃ大きなおかげが頂けれるごと思うとる。決してそうじゃない。大きなおかげを頂く為には、やはり、大きな修行が必要なのである。修行をやはり刷り貯めておかにゃん。墨を。
だからその久保山である。私共がもうこの修行と言うことにはですね。いわゆる一生が修行だと。私共はこれはまあ手足の動く限りはね、楽ごとでもしようとは夢思わない。もうそれこそ命の有る限り手足の動く限りは、やはり第一線に立ってこの様にしておかげを頂きたいと思うております。その心の状態だと思うのです。なるほどこげな修行を何時までせなんじゃろうかなんてんちゅうことじゃないいけん。
そういう例えば修行のね心が希薄でありますと、必ず腰折れ致します分かっておってから頭では。神様の御都合である事は分かっておりながらです、是も神様のおかげである事が分かっておりながらこの世は難儀と言う難と言う言葉すらいらない。必要ではないあるものは神愛のみだと分かっておってもです。自分の都合が悪い事が起こってくるとです神様の御都合と分かっておっても、それを受け応えられずに腰を折ってしまう。
そこん所を繰り返し繰り返ししておるような人が沢山あろうと思う。次の茂るというのがいいじゃないですか。茂ると言う事は草冠に成ると書いてあるでしょうが。成就の成。草冠と言う事は自然と言うことですね。もう自然に成就していく。しかもその成就と言うのはね、もう限りがないほどに成就していく。いわゆる限りないいわゆる無尽蔵というかね、無限の供給を受け続けて行くことが出来る。
無限供給というようなおかげは頂きたいけれど。ほんなら限りなく修行をさせて頂こうという体制は整えていない。それでは久保山茂にならない。久保山が出来て茂るのおかげである。六十五節が今日は大変な方向へまいりましたですね。六十五節を頂いて、降っても照っても、良い悪いはないと思えたり、仰ることは是は天気だけのことではない。日柄方位だけのことだけでもない、普請作事のことだけでもない。
全ての事に通ずる。私共はここの所を分からせて頂いて、今申します腰折れ信心にならん様におかげを頂くと同時に、本気で所謂神様中心主義の信心。神様本意の信心にならせて頂くと同時に一生が修行じゃという、私はその修行の姿勢というものを整えさせて貰う、所謂愈々前向きな姿勢になるわけです。しかもねその修行がです、生き生きとなされておる時です。その修行が生き生きとしてなされておる時。
それはどのような事が、例えば起きてまいりましても、どっこいと受けていけれる、不思議です。生き生きとした修行が出来ておる時には、いわゆる神様の御都合。そういう受け方が、神様本意の信心なんです。神様の御都合に違いない自分の都合じゃない。神様の御都合に違いはないのですから。頭で分かっただけでは受けられんけれども、今申しますいわゆる、久保山の修行が出来ておる時にはです、生き生きと出来ておる時には、それをそれとして、受けていくことが出来る。
有難く受けていく事が出来る。神様の御都合と受けることが出来る。いやこれはまだ信心が足りんからだと受けて行くことが出来る。そこにです修行が求められ、その修行がなされておらなければ、良い日も悪い日もないと思えと仰っても思えないのである。しかも、そういう信心にはです、いわゆる、無限の、いわゆる、自然は限りなく、いわゆる資源。自然の中に、願わんでも頼まんでも成就していくという事。
しかも限りなくである。そういうおかげの頂けれる道をです、私共が体得させて頂いてです。世の中に、先ほど申しました、あらゆる宗旨宗派があります。これはまあ私の浅い、いうなら勉強でです、そういう事は言えないでしょうけれども、私が知っておる限りの宗教はです。いかにもそれに良く似たことを言うておるけれども、究極の所、例えば食物の点にだけででも、これから漏れておるという事です。
こげな信心するなら、こげなものは食べては出来んとか。この信心をするなら、こんなものは飲んではいけんとか、ああはしちゃいけんこうはしちゃいけんというような、一つの戒律的なものに縛られておるじゃないですか。それは丁度日柄方位に縛られておるようなもの。しかもその日柄方位なら日柄方位でもです。一つの理屈をまあ繋ぎ合わせるならです、一つの理論が成立する。そういう例えば理論を成立させてでも。
そういう例えば学問なら学問によって、それを形造ってでも窮屈な方へ入って行こうとする様な宗教ばっかりですよ。金光様のご信心のようにですね、この辺の所をこの様に明確に素晴らしい表現を持って、教えて下さる宗教はありませんと私は思うです。そこでねそこで私共が今日私が申しました様なとこを体得させて頂いて、神様中心の信心させて頂きゃこういうおかげが頂けますと言う事をです。
世の中の難儀な氏子に伝えて行かせて頂こうという信心が必要になる、いや神様がそれを願い求めておられるという事なんです。金光様の信心をさせて頂きゃ、日柄もなからなきゃいわば方位もない。そういう生き方が、人間としての本当の生き方である。金光様のご信心、そういう信心を極めて行く所から生まれてくるのが和賀心であり、有り難しという心なのである。金光様のご信心を頂いて、有り難いという心。
金光様のご信心を頂いていわゆる和の心。どのような中に入っていっても和である。赤の方に入っていく時だけは和だけれども、白のほうに入っていく時には腹が立つじゃったら、それは和とは言えない。和とはどのような中にあっても和でなからなければ、お道の信心で言う和はそうなんです。賀というのは祝賀の賀じゃと仰る。いつも心が弾んでおる。生き生きとして喜びに輝いておる。
そういう心の状態そういうおかげが受けられる。そういうおかげの前にはです。昨日から私が申しております、「天地のことは人の眼を持て、知って知りがたきものぞと。恐るべし恐るべし」と言うておられるほどしの、例えば恐るべしと言う様な事があっても、例えばならここに日柄方位に縛られてです。ただ横着で日柄も見らずに方位も見らずにしたら、矢張りこんな恐ろしい事になったという実例は沢山あります。
だから無いとも限らん。けれども、お道の信心によって頂くところの喜び、和賀心と言うことの前にはです、昨日の御理解を借りると、霜に熱湯をかけるようなものだということです。何もなくなって来る。そういう素晴らしい世界。もう雲一点もない世界。いわゆる、本当に意味においての光明世界である。光の世界である。その例えばいかにも光明世界だと、あらゆる宗教が言うてもです。
あんたん所の信心をするとお酒が飲めんげなのと言うなら、もう雲が一点である様なものじゃないでしょうか。あなたの所の信心は生臭けをとっちゃいかんそうだなというなら、もう是はもうこう月に雲が掛っておる様な事じゃないでしょうか。お道の信心によって言う和賀心、又は真に有り難しという心の前には、どういうそれは恐るべしという様な、天地の事を私共の眼を持って、人間の限界では分からない事が沢山ある。
その中には矢張り恐るべし恐るべしという事もあるけれど、その恐るべしと言う事がです和賀心。又は有り難しという心の前には、何もいわゆる雲け一点ないと言う様な光明世界に住む事が出来る。しかも久保山茂である。その為には久保山一生が修行じゃという姿勢をとる事と同時にです。神様中心に頂かせてもらう信心。所謂神様本意の生き方。茂いわゆる自然に成っていく。是も願わんでも頼まなくても、何時のまにかなんとはなしにずうっと、高い所から低い所に水が流れる様におかげが頂けてくる。
そういうおかげを頂かせて貰うとです、世界中の難儀な氏子にですこういう信心にならせて頂き、こういう心がけにならせて頂きゃ、こういうおかげが受けられるという。私はね先ず我が身にもおかげを受けて、人にそれを伝えていくという。世間に何ぼうも難儀な氏子有り。所謂実意丁寧な信心しよる何々様も拝みよる。私は何々の宗教だと言う様な人がです、難渋しておるというのは。
例えば日柄方位的なものに縛られておるという生活。そういう難儀な様相というものを、私共が難儀な様相と分からせて貰うて、そこから救いの手を差し伸べさせて頂けれるおかげを頂かなければならない。それが神様の願いだと、私は思うのです。為には今日私が申しました、この六十五節から頂く所のです、全てがおかげとして頂けれる、神様の御都合として頂けれる信心を、愈々自分のものにしなければならない。為に私共が本気で修行の姿勢を作らなければならんと言う様な事を申しましたですね。
どうぞ。